環二通りは都市計画道路の環状第2号線として計画され、虎ノ門から新橋までの区間は長年にわたり事業化に至らなかったところ、立体道路制度の創設を契機に事業化されました。
新橋から有明までは、臨海副都心への再編を誘導する道路として延伸され、土地区画整理事業や街路事業を組み合わせて事業化されました。
〔目次〕
環状第2号線の概要
全体の概要
環状第2号線は、江東区の有明から、港区の新橋、虎ノ門を経て千代田区の神田佐久間町に至る延長14kmの都市計画道路です。
終点の神田佐久間町から新橋までの延長9.2kmは、昭和21年(1946)3月に幅員100mで都市計画決定をされ、昭和25年(1950)3月に現在と同じ幅員40mに都市計画変更されています。
神田佐久間町から虎ノ門までの延長7.9kmの区間は完成していて、外堀通りとして供用されています 1) 。
環二通り区間の概要
虎ノ門から新橋までの延長1.4kmの区間は、都心部にあるため膨大な用地費を要することや、多くの住民が現地残留を希望していたことなどから、長年にわたり事業化に至りませんでしたが、立体道路制度が創設されたことを契機に事業化され、平成26年(2014)3月に開通しました。
新橋から有明までの延長4.7kmは、平成5年(1993)7月に臨海副都心への再編を誘導する道路として延伸され、地域の状況に応じて土地区画整理事業や街路事業を組み合わせて事業化されました。 新橋から豊洲までの延長3.4kmの区間は、工事が遅れている築地市場跡地部に暫定道路が造られて、平成30年(2018)11月に開通しました。 市場跡地の工事の後、令和4年度(2022)に本格的な供用が予定されています 2) 。 豊洲から有明までの延長1.3kmは平成18年(2006)3月に開通しています。
このふたつの区間を合わせた、虎ノ門から有明までの区間が環二通りになっています。
港区虎ノ門〜港区新橋間の整備計画
事業化までの概況
ビルに囲まれ低層の建物のみが建つ環状2号線の事業区域
写真出典〕東京都港区HP
https://www.city.minato.tokyo.jp/shibachikusei/shiba/koho/documents/shiba05.pdf
環状第2号線の虎ノ門から新橋までの延長1.4kmの区間は、都心部にあるため膨大な用地費を要することや、多くの住民が現地残留を希望していたことなどから、長年にわたり事業化に至りませんでした 1) 。
過去には、都市計画道路区域外の人はビルを建てているのに、都市計画道路区域内の人は建築制限でビルを建てられないのは不公平だとして、計画の廃案運動もありました 2) 。
立体道路制度の活用
立体道路制度
図表出典〕東京都都市整備局HP
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/dainiseibi/tikubetu/kanjyounigou/pdf/ko01.pdf
平成元年(1989)6月に、道路の区域を立体的に定め、それ以外の空間は利用できるようにして道路の上下空間での建築を可能にし、道路と建築物等との一体的整備を実現する立体道路制度が創設されました 3) 。
立体道路制度によって、現地残留を希望する地権者も地域での生活や営業を継続しながら道路整備とまちづくりができるようになったことから、立体道路制度を活用した市街地再開発事業が行われることとなりました 1) 。
再開発事業と街路事業の事業化
環状第二号線新橋・虎ノ門地区第二種市街地再開発事業
図表出典〕東京都都市整備局HP
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/dainiseibi/tikubetu/kanjyounigou/pdf/ko01.pdf
虎ノ門から新橋までの区間では、再開発事業で用地の確保と地上部の道路整備を行い、街路事業で地下トンネルが整備されました。
平成10年(1998)12月に立体道路制度を活用した市街地再開発事業の都市計画決定と、環状第2号線の本線を平面街路から地下トンネルにする都市計画変更が行われました。 平成14年(2002)10月に新橋・虎ノ門地区市街地再開発事業計画が決定され、平成15年(2003)10月に環状第2号線の地下トンネル(汐留〜虎ノ門)の事業認可を得て事業が始まりました。 再開発事業の施行面積は8.0ha、住宅建設戸数は381戸です 4) 。
1) 立体道路制度を活用した東京都施行による 「環状第二号線新橋・虎ノ門地区市街地再開発事業」について(関東地方整備局政策広報・関東の窓)
2) 環状第二号線再開発事業の経緯(港区芝地区の地域情報誌)
3) 立体道路制度(国土交通省 道路空間の利活用)
4) 環状第二号線新橋・虎ノ門地区 再開発事業/道路事業 事業概要2015(東京都第二市街地整備事務所 環二地区)
港区新橋〜江東区有明間の整備計画
(臨海副都心の開発に伴う環状第2号線の延伸)
臨海副都心の開発
臨海副都心の現況
図表出典〕江東区HP(リンク切れ)
東京都は都心3区に集中していた業務機能を新宿や渋谷、池袋などの副都心に分散する多心型都市づくりを進めていました。
昭和61年(1986)11月に策定された第二次東京都長期計画で、業務機能を分散する副都心に臨海副都心が追加されました。
平成4年の臨海副都心の航空写真
(空地がほとんどで、船の科学館と有明コロシアム以外の大きな建物はほとんどが倉庫)
写真出典〕国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
当時の臨海部は、ほとんどの土地が空地か倉庫などの物流施設で占められていました。
この地域で「豊洲・晴海開発整備計画(平成2年6月策定、平成14年9月再改定)」や「臨海副都心まちづくり推進計画(平成9年3月策定)」が策定され、臨海部に居住人口8万2千人、就業人口9万7千人を開発フレームとする新しいまちづくりを進めることになりました 1) 2) 。
東京都の多心型都市づくり (環状第2号線の計画関連)
東京では、昭和50年代後半から都心への業務機能の集中が加速し、都心3区の事務所の床面積は昭和50年(1975)から昭和63年(1988)に1.6倍に増加し、昼間就業人口も昭和50年(1975)の190万人から、昭和60年(1985)には220万人へと30万人増加しました。 このような業務機能の集中の結果、都心部で夜間人口の減少によるコミュニティの崩壊、都心部に勤める人の通勤の遠隔化、多摩地域で住宅のスプロールによる無秩序な市街地の形成など、様々な問題が生じました。
これらの問題は都心部に業務機能が集積している一点集中型の都市構造がもたらしたとして、東京都は、都心部へのこれ以上の業務機能の集中をおさえて、副都心や多摩の都市などに業務機能を分散立地させ、職と住がバランスよく近接した都市である多心型都市構造へ転換することを掲げました。
分散立地をする副都心として、昭和57年(1982)12月に策定された東京都長期計画では新宿、渋谷、池袋のほか、上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎地区などがあげられ、昭和61年(1986)11月に策定された第二次東京都長期計画で臨海副都心が追加されました 1) 2) 3)。
1) 東京都、東京都長期計画、昭和57年12月、P.18〜20
2) 東京都、第二次東京都長期計画、昭和61年11月、P.29
3) 東京都、第三次東京都長期計画、平成2年11月、P.61
臨海副都心に関連する道路等の整備
多心型都市構造への再編を誘導する交通網の整備として、昭和61年(1986)11月に策定された第二次東京都長期計画では、臨海部でレインボーブリッジ(当時は東京港連絡橋、平成5年開通)やゆりかもめ(当時は新交通システム、平成18年開業)などを、平成2年(1990)11月に策定された第三次東京都長期計画では、環状第2号線や都市高速道路晴海線などの都心と副都心をつなぐ道路網を整備していくものとされました。
交通基盤の整備状況(平成5年)
交通基盤の整備状況(平成30年)
環状第2号線の延伸等の都市計画決定
平成5年(1993)7月に都心と臨海副都心とを繋ぐ道路として、環状第2号線の港区新橋(第一京浜交点)から江東区有明(湾岸道路交点)までの延伸や、有明通りとなる放射34号線支線1の中央区晴海(晴海通り屈曲点)から江東区有明(湾岸道路交点)までなどが都市計画決定されました。
整備手法は、晴海地区や豊洲地区、有明北地区では大街区方式の土地区画整理事業などにより進めることとされ、築地地区や勝どき地区、運河部などでは街路事業により進められることとなりました 3) 。
1) 豊洲・晴海開発整備計画(東京都 港湾局)
2) 臨海副都心まちづくり推進計画(東京都 港湾局)
3) 臨海部開発土地区画整理事業(東京都 都市整備局)
築地市場部の都市計画変更
環状第2号線の港区新橋から江東区有明までの延伸が都市計画決定をされた平成5年(1993)7月に、築地市場では現位置での再整備が進められていました。 そのため、環状第2号線の都市計画は、市場の用地を削らないようトンネルで築地市場と隅田川、勝どき地区の下を抜けて、晴海地区で地上に出る計画として定められました 1) 。
その後、平成13年(2001)12月に築地市場の豊洲地区への移転が決定したことから、築地市場跡地の土地利用の増進などを図るため、平成19年(2007)10月に環状第2号線は築地市場の跡地で地上に出て、隅田川を橋梁で渡り、勝どき地区を高架橋で超える都市計画へ変更されました 2) 。 この区間は平成19年(2007)12月に事業認可を取得して工事が進められました。
築地市場の移転の経緯 (環状第2号線の計画関連)
東京都は、昭和10年(1935)に開場し場内が狭隘で過密化が問題となっていた築地市場について、昭和50年代に大田区の大井地区への機能分散を計画したものの、昭和60年(1985)に水産業界が大井市場への機能分散に反対する総決起集会を開くなど水産業界の強い反対をうけ、昭和61年(1986)に築地での再整備に方針を転換をしました。
平成3年(1991)に築地での再整備に着手し、400億円を費やして仮設駐車場などの工事が進められました。 しかし、工期の遅れや整備費の増嵩があったのに加え、限られた用地の中での再整備工事となることから、業界が店舗の位置や荷の搬送経路が頻繁に変わったり、工事用車両と営業用車両とが錯綜したり、店舗の立地に格差が生じる可能性があることを問題視して調整が難航し、平成8年(1996)に工事が中断されました。
業界と計画の見直しについて協議するなかで、業界6団体連名で臨海部への移転の可能性についての調査・検討の要望書が提出されるなどし、平成13年(2001)に豊洲地区への移転が決定されました。
1) 築地市場移転決定に至る経緯(第13回新市場建設協議会資料)
2) 東京都中央卸売市場築地市場の移転・再整備に関する特別委員会速記録第八号(東京都議会)
1) 平成4年都市計画環境保全委員会(東京都議会)
2) 都市整備委員会速記録第十一号( 〃 )