東八道路は、都市計画道路の東京八王子線として昭和37年に都市計画決定され、昭和40年代には主要な整備路線として重点的に整備が進められ、14km中5kmが完成していました。 昭和40年代後半に整備への反対運動が展開され、計画どおりの整備が困難となりました。 現在、終点付近で最後の整備が進められています。
〔目次〕
東八道路の計画
昭和36〜37年度(1961〜1962)に、それまでは各都市計画区域ごとに計画が定められていた多摩地域の都市計画道路を、多摩地域全体を見据えて見直す再検討が行われました。 このときに、多摩地域の東西方向の道路として、従来よりあった青梅街道や甲州街道に加えて、東京八王子線が設けられました。
東京八王子線の一部である東八道路は、当時の計画では6車線の計画幅員30〜36mの道路で、次の都市計画道路として昭和37年(1962)に決定されました。
- 三鷹3・2・2号東京八王子線
- 府中3・2・2の1号東京八王子線
- 小金井3・2・2号東京八王子線
- 府中3・2・2の2号東京八王子線
- 国立3・2・2号東京八王子線
東京八王子線の整備は、計画決定前の昭和32年に小金井市内で一部着工していました 1) 。
中期計画−1968年の主要道路計画図
出典〕東京都中期計画−1968年
昭和43年(1968)に美濃部東京都知事が初めて策定した中期計画には、多摩地域では4路線しかない昭和46年(1971)までに完成する主な箇所のひとつに、東京八王子線の三鷹市新川から小金井街道までが掲げられました 2) 。
1) 第126回都市計画審議会 議事録(杉並区都市計画審議会)
2) 東京都、東京都中期計画−1968年、P.206, P.217
東八道路の整備
昭和40年代には東京八王子線の延長14kmに対して10kmが事業中と重点的に整備が進められ、昭和46年(1971)には三鷹市新川から府中市栄町までの5kmが完成していました 1) 。
しかし、この頃、杉並区の高井戸地区で東京八王子線と繋がる放射第5号線の反対運動が、三鷹市内で東京八王子線の反対運動が展開され、計画どおりの整備が困難となりました。
東八道路の起点前後となる区市境付近は令和元年(2019)6月8日に開通し、現在、新府中街道との交点から甲州街道との交点までが最後の事業区間として整備されています。
1) 朝日新聞 昭和54年8月28日
東八道路の手前の整備(甲州街道交点〜人見街道近接点)
東八道路の手前の整備の整備区間
図表出典〕杉並区HP(リンク切れ)
令和元年(2019)6月8日に本格供用された甲州街道との交点から人見街道との近接点の先までの区間は、放射第5号線の高井戸東区間、西区間、久我山区間と、三鷹3・2・2号区間の4つの区間に分けて整備が進められました。
高井戸地区の暫定供用の経緯
放射第5号線は昭和21年(1946)に都市計画決定をされました。 杉並区高井戸地区については、昭和41年(1966)の都市計画道路の見直しで、放射第5号線と三鷹3・2・2号線を繋げて区部と多摩を結ぶ主要な幹線とするためや、高速道路4号線を延伸して中央自動車道と繋げるために、現在の位置に計画変更されました 1) 2) 。
環八通りの西側の区間は、中央自動車道の整備とともに、昭和43年(1968)12月に事業化されました 3) 。 昭和47年(1972)頃に、学校敷地に隣接して中央自動車道と放射第5号線が整備される富士見丘小学校のPTAが署名活動や議会への請願を行うなど、反対運動がおこりました 1) 。
住民団体のとのたび重なる話し合いに基づいて、中央自動車道の高井戸オンランプの設置を凍結するとともに、放射第5号線は当初6車線だった計画を変更して2車線+停車帯に縮小して広い植樹帯を設けたり、学校には騒音防止措置を講ずるなどして、昭和50年(1975)3月に竣工しました 4) 。
完成した道路の供用を開始しようとしたところ、一部の住民団体から、道路の整備は認めたが供用については認めていない、学童に健康被害が生じないことを事前に確約せよなどとの要求が次々に出されました。 完成した道路がバリケードで閉鎖されたまま住民団体との話し合いが9年にわたり90回続けられたものの、一部の団体は交通開放を前提とする話し合いには一切応じないという立場に終始しました 4) 。 最終的には住民団体の合意が得られない状況のなかで、昭和59年(1984)5月30日に交通開放されました。
1) 富士見丘小学校教育環境懇談会まとめ(平成26年3月、杉並区教育委員会)
2) 第126回議事録(平成16年1月27日、杉並区都市計画審議会)
3) 昭和57年第1回定例会(第6号)(東京都議会議事録)
4) 昭和59年第2回定例会(第7号、第8号、第9号)(東京都議会議事録)
放射第5号線の高井戸東区間
甲州街道と立体交差をする下高井戸陸橋から環八通りとの交点までの延長0.6kmの放射第5号線の高井戸東区間は、放射第5号線の本線が往復2車線の暫定的な形態で昭和48年(1973)に供用されていました。
これを既存の道路幅員の中で往復4車線にする再整備が行われました 1) 。
放射第5号線の高井戸西区間
高井戸西区間の再整備の断面例
図表出典〕東京都HP
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/sanken/doro_hosya5.takaidonisi.html
環八通りの交点から中央自動車道が上を通る延長1.0kmの放射第5号線の高井戸西区間は、放射第5号線が中央自動車道の外側の暫定往復2車線で供用されていました。
これを既存の道路幅員の中で、本線車道は中央自動車道の高架下の往復4車線にし、中央自動車道の外側に副道や歩道を整備する再整備が行われました 1) 。
放射第5号線の久我山区間
久我山区間の標準断面図
図表出典〕東京都HP
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/sanken/doro_hosya5.kugayama.html
中央自動車道が放射第5号線の上から外れた地点から、杉並区と三鷹市との境までの延長1.3kmの区間は、放射第5号線の中で唯一の未整備区間でした。
この区間から都心側の玉川上水は暗渠ですが、この区間の玉川上水が開渠で、放射第5号線と重なっています。
この区間では、平成12年(2000)3月から計画の策定段階で実現可能な3案を示して都民の意見を聞く総合環境アセスメント制度の試行が行われました。 玉川上水などの地域の環境に配慮し、都市計画幅員を50mから60mに拡幅して、中央分離帯の中の玉川上水の両脇に遊歩道を設ける案に決定されました。 平成16年(2004)5月に都市計画が変更され、平成17年(2005)12月に事業認可を受けて街路整備が行われました 1) 。
1) 放射第5号線(久我山)(東京都第三建設事務所)
2) 東京都における計画段階環境アセスメント制度導入への取り組み(騒音制御、2002年26巻2号)
三鷹3・2・2号(区市境)区間
三鷹3・2・2号の区市境付近の延長1kmは、三鷹市内で整備が最も遅くなった区間で、そのうち西側の0.5kmは平成12年3月に事業認可を受け先に一部区間が供用されました。
東側の0.5kmは放射第5号線とともに総合環境アセスメント制度の試行の対象で、現行の計画幅員で整備することとなり、平成16年(2004)5月に事業認可を受けて街路整備が行われました 1) 2) 。
三鷹市役所裏と東京大学三鷹寮の反対運動と整備
三鷹市内の東八道路は、昭和42年度(1967)に三鷹市野崎の武蔵境通りと交差する野崎八幡前交差点から西側が6車線で完成し、昭和47年(1972)には、その東側の三鷹市役所裏の0.5kmの区間の工事もほぼ終わりかけていたものの 1) 、更に東側の東京大学三鷹寮の用地取得が難航していました。
そのため、昭和47年(1972)12月に三鷹市議会が『東京大学三鷹寮の用地買収が進捗しないという理由で(中略)、すでに供用をしている三鷹市野崎の末端地点からは、おびただしい車両が三鷹市内に流入し、交通渋滞の原因となり、市民の安全をみだす状況となっております。つきましては、東京都においては、問題の箇所を早急に解決し、建設促進を図られるますよう、強く要望したします。』と決議するような状況になっていました 2) 。
このような状況のなかで、道路建設の反対運動が起こり、道路の供用は昭和63年(1988)まで遅れました。
1) 朝日新聞 昭和54年8月28日
2) 三鷹市史通史編、H13.2、P.567〜569
三鷹市役所裏の道路建設反対運動
再着工を伝える
新聞報道見出し
出典〕読売新聞
昭和54年3月3日
反対活動を伝える
新聞報道見出し
出典〕読売新聞
昭和48年2月16日
昭和47年(1972)に沿線の住民や東大三鷹寮の学生、航空宇宙研究所の職員などにより「30m道路を考える会」が組織され、「幹線道路ができると、環境が破壊される」として 1) 、都議会や三鷹市議会に建設反対や建設計画の撤回、東京八王子線の廃線化を求める請願を出すなどの反対運動を展開されました 2) 3) 。
東京都は「30m道路を考える会」と、当面は片側1車線とするなどの覚書を結んで話し合いを続けたものの 1) 、道路を造るべきでないという反対派と、沿道環境に配慮して道路を造りたい東京都との隔たりは大きく、昭和47年度(1972)に概ねの整備を終えた三鷹市役所裏の0.5kmの区間が開通できない状況になりました 4) 。
反対運動がある一方で、建設促進を求める活動も組織化され、都議会や三鷹市議会に建設促進の請願を出すなどの活動が行われました 2) 3) 。 調布市議会も昭和54年(1979)に『都道三鷹国立線建設促進に関する決議』として『新宿方面の建設が遅れているため、車両の多くは調布市住宅地内を通過し、市民のこうむる交通公害は著しいものがある。ここに、調布市議会は同線の建設を促進し、早期開通を強く要望する。』との決議をしました 5) 。
6年に渡って完成した道路が供用できない状況のなか、都は「歩道を2倍に拡幅、当面片側1車線」の暫定措置によって工事再開を図ることとして 6) 、昭和54年(1979)に60人のガードマンを配置し、120人の警察官が警戒にあたるなかで工事を再開し 7) 、昭和55年(1980)1月に供用を開始しました 8) 。
1) 朝日新聞 昭和48年3月20日
2) 三鷹市史通史編、H13.2、P.567〜569
3) 昭和49年 第2回臨時会 議事録 他(東京都議会議事録)
4) 読売新聞 昭和48年5月19日
5) 調布市議会50年史、H18.3、P.230
6) 読売新闘 昭和54年2月27日
7) 読売新闘 昭和54年3月3日
8) 朝日新闘 昭和55年1月11日
東京大学三鷹寮
30m道路工事着工に抵抗する反対派と
警戒に当たるガードマン
出典〕朝日新聞 昭和61年11月20日
前述の三鷹市役所裏の区間の東側で、東京大学三鷹寮が計画線にかかっていました。 当時の三鷹寮は、敷地が3万m2と広大でありながら100人規模の寮があるのみで 1) 、寮のなかにはゲバ棒などが放置されている状況でした 2) 。
反対派の住民や東京大学の寮生による建設阻止運動が続くなか、用地買収や工事には更に時間がかかりました。 昭和61年(1986)11月、昭和40年(1965)の事業認可以来21年ぶりに100人のガードマンなど300人体勢で着工し、工事の中止を求める仮処分申請がされるなか、昭和63年(1988)に片側1車線+停車帯で供用されました 3) 4) 5) 。
1) 学内広報 No.1230(東京大学)
2) 衆議院第87国会予算委員会議事録第5号(国会会議録検索システム)
3) 三鷹市史通史編、H13.2、P.567〜569
4) 朝日新聞 昭和61年11月20日
5) 朝日新聞 昭和62年5月29日
その後の再整備
上記の区間は、片側1車線に停車帯という形態で暫定供用されていましたが、平成20年代に4車線で再整備がされています。 また上記の区間の東側の区間は、その後に事業認可を受けて整備が進められました。
反対派住民と結んだ覚書等に対する東京都議会の指摘
当時、住民団体との話し合いのなかで、高井戸地区や三鷹市役所裏では住民団体と確認書や覚書を取り交わしています。 覚書等を取り交わしたことに対して、議会でどのように指摘されてきたのかを紹介します。
昭和48年2月20日付で当時の東京都特定街路建設事務所長名で、建設反対運動を進める30m道路を考える会に発行した覚書を見るとき、都の要請を受け、それにこたえた大変多くの市民や関係市に対する一片の理解も得ず、発行した行為と同質であるとしか考えられません。
確認書による「都は放五の供用に際しては上下線とも一車線プラス停車帯として、これを変更する場合」、そしてまた、さらに、「高井戸ランプの供用またはそれに伴なう問題」は、協議会での協議事項であることに間違いないですね。
東京都としては通したいからこういう提案でいきたいということは提示していると思うんですけれども、やっぱりそこは協定で、条件が整わなければ通さないということが今の現状だというふうに思うんですね。
武蔵境通り交点から新府中街道交点までの整備
三鷹市の野崎八幡前交差点(武蔵境通り交点)付近から、小金井市の前原交番前交差点(小金井街道交点)付近までの5kmは、昭和46年(1971)11月までに片側三車線で開通しています 1) 。
この区間では、平成20年代に車道を4車線に狭めて、自転車走行空間の整備が行われました 2) 。
小金井街道から西の区間は昭和48年度(1973)に工事の着工が予定されていましたが、沿線で住民の組織ができたことから工事が見送られていました 3) 。 小金井街道から府中街道までは昭和50年代に、府中街道から新府中街道まではその後に、4車線で整備されました。
1) 読売新聞昭和54年2月27日朝刊
2) 東八道路の歩道を広げ、自転車走行空間の整備をしています(東京都北多摩南部建設事務所)
3) 朝日新聞 昭和54年8月28日
新府中街道交点から甲州街道交点までの整備
標準横断図(一般部)
東八道路の西側の未整備区間である新府中街道から甲州街道までの延長1.3kmの事業化で、東八道路は全線が事業化されました。
この区間は従前は一般部は幅員28m、甲州街道の北側でJR南武線を越える跨線橋部は36mで都市計画をされていました。 道路の両側に環境施設帯を設けるために、平成19年(2007)に都市計画変更素案の説明会が、平成22年(2010)に環境影響評価と幅員を36〜41mに変更する都市計画変更が行われ、環境施設帯の整備形態は地元との検討会で決められています 1) 2) 。
事業は平成23年(2011)に事業認可を取得して進められ 1) 、平成30年(2018)時点で用地買収は9割以上進み、南武線跨線橋は下部工事が行われています 4) 。