神宮外苑とイチョウ並木の整備

(東京都港区、新宿区、都道414号四谷角筈線)

 神宮外苑は明治天皇の遺徳を偲ぶ施設として国民の寄付と勤労奉仕で造られました。 「神宮外苑イチョウ並木」は交通と園地の美観に資する道路として造られ、後に都道に移管されました。

〔目次〕

神宮外苑イチョウ並木

青山通りから絵画館前に向かう神宮外苑イチョウ並木

写真出典〕当サイト撮影(R2.7)

神宮外苑の整備

明治神宮(内苑と外苑)の整備計画

 明治45年(1912)7月に明治天皇が、大正3年(1914)4月に明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が崩御され、それぞれ京都市伏見区の伏見桃山陵と伏見桃山東陵に埋葬されました。

 天皇陵が東京に造営されないことが決まると、様々な場所で天皇の遺徳をしのぶ施設を造ろうとする運動が起こりました。 実業家の渋沢栄一や東京市長の阪谷芳郎らは有志の委員会を組織し、これらの施設を一箇所にまとめてつくることなどを考え、大正元年(1912)8月に次の趣旨の覚え書きを作成して政府に働きかけました 1)

  • 神宮は内苑(明治神宮)と神宮外苑からなる。
  • 神宮内苑は国費により政府が、神宮外苑は寄付により奉賛会がそれぞれ造営する。
  • 神宮内苑は代々木御料地、神宮外苑は青山練兵場を最適とする。
  • 神宮外苑には記念宮殿、陳列館、林泉などを建設する(この項は変更されています)

 政府は覚え書きの趣旨に沿って大正2年(1913)11月に大正天皇から「明治天皇奉祀ノ神宮創設ニ関スル件」の裁可を得て、大正4年(1915)5月に明治神宮の創立が告示されました。 代々木御料地に整備された明治神宮は、大正4年(1915)10月に地鎮祭が行われて創建が開始され、大正9年(1920)11月1日に鎮座祭が行われ明治神宮が創建されました 2)

神宮外苑の施設配置

 明治神宮外苑になった旧青山練兵場は明治19年(1886)から明治42年(1909)まで練兵場として使われていました 3) 。 大正元年(1912)には明治天皇の大喪儀が行われました。 このとき、青山通り側の正門から現在のイチョウ並木を経て、絵画館の方向に延びて、JR中央線の青山仮停車場に至る幅36m(20間)、延長909m(500間)の南北軸の園路が整備されました 4)

明治神宮外苑平面図

明治神宮外苑平面図(長谷川香氏加筆)

図表出典〕長谷川香 明治神宮外苑の成立過程に関する研究

 神宮内苑(明治神宮)が神社であるのに対して、神宮外苑は公園のなかに明治天皇の記念事業として構想された多岐にわたる施設が造られました。 神宮外苑は、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が国民より募った寄付や献木、述べ10万人を越える全国青年団の勤労奉仕によって造られました 2)

 明治神宮外苑には、当初、聖徳記念絵画館、葬場殿趾記念物、憲法記念館、陸上競技場などが想定されていました。 神宮外苑が造られていくなかで、全国青年団が勤労奉仕の多くを担ったことから、若者向けのスポーツ施設が付け加えられました。

 神宮外苑の最終的なレイアウトは、聖徳記念絵画館が中心施設となり、明治天皇の葬儀の際に設けられた南北軸の園路もイチョウ並木の区間が活かされました。 聖徳記念絵画館を囲む外苑外周道路の外側に明治神宮野球場(神宮球場)、相撲場、陸上競技場(現国立競技場)、水泳場、憲法記念館(現明治記念館)が配置されました。

 神宮外苑は地鎮祭が大正7年(1918)6月に行われ、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献されました 4)

園路の整備

 神宮外苑は寄付と勤労奉仕により造られることから、交通と園地の美観に資する園路を経済的に造ることが重視されました 5) 6) 7)

イチョウ並木の横断構成

イチョウ並木の道路横断面図

図表出典〕土木建築工事画報

イチョウ並木‥青山通り側の正門から葬場殿へと至る明治天皇の大喪儀の大通り跡の南側はイチョウ並木として引き継がれました。 延長400m(221間)、幅員33m(18間)で、中央の幅員16.2m(9間)を車道とし、左右各々に幅員3.6m(2間)の植樹帯、幅員4.5m(幅2間半)の歩道、路外の芝生地からなっています。 植樹帯と路外の芝生地に合わせて4列のイチョウ並木が設けられ、9m(5間)毎に植栽が並列されました。

外苑外周道路‥イチョウ並木の終点から左右に旋回して苑地の中央を楕円形に周回する道路は、延長1,370m(760間)、幅員18m(10間)で、車道が幅員11m(6間)、両側の歩道が幅員1.8m(2間)です。

縦断排水計画‥排水は外苑を5区に分けて西側の渋谷川に排水することとして、園路中央に排水幹線が布設されました。 路面排水は側溝で受けて排水側線を経て排水幹線に流します。 結果、イチョウ並木は絵画館に向かってゆるやかな下り勾配となりました。

舗装‥当時の東京の街路は一般に舗装はされず、雨が降ると泥濘になり晴天時は黄塵が舞う状況でした 8) 。 車道路面は、当時、最新鋭の機械施工のワービット工法で舗装されました 9)

植栽‥東京で街路樹の整備が大々的に行われたのは大正12年(1923)におきた関東大震災からの復興事業からでした 8) 。 それに先立って、明治41年(1908)に新宿御苑で採集した銀杏が、現在の明治神宮の境内に蒔かれました。 大正12年(1923)に樹高6m程に育ったイチョウがイチョウ並木に移植されました。 このとき、遠近法の効果を狙って絵画館に向けて樹高がすこしづつ低くなるように植栽されました 10)

その他‥水道、電線、ガス管を地中埋設しています。

創建後の建替え等

 神宮外苑は終戦までは国の施設でしたが、昭和20年(1945)に進駐軍が接収し、昭和27年(1952)に接収解除されました 1) 。 その後、イチョウ並木(内側2列)や外苑外周道路は東京都に移管されて都道となり、陸上競技場は文部科学省に譲渡され国立競技場となり、その他の土地は宗教法人明治神宮が有償で譲与を受けています。

 国立競技場はオリンピックの際に2度改築されています。 宗教法人明治神宮は神宮外苑の事業収入で諸施設の管理運営を行っており、軟式球場、テニスコート、ゴルフ練習場、アイススケート場、打撃練習場、フットサルコートなどを作るなどの建替えをしてきました 1) 2) 。 明治神宮の内苑に100年の森とか神宮の森と呼ばれる鬱蒼とした森がありますが、この森の維持管理にも神宮外苑の諸施設の収益があてられています 3)

 現在、宗教法人明治神宮や伊藤忠商事本社ビルなどの土地で、神宮外苑地区第一種市街地再開発事業により築100年となる神宮球場など老朽化した施設の建替えなどが進められています 4) 5) 6) 。 この事業では施設の再配置などにより移植されたり伐採される樹木がありますが、イチョウ並木が保全されるほか、オープンスペースを倍増させて樹木も増やす計画になっています 7)

道路管理

パレスサイクリングコースの図表

サイクリング道路(神宮外苑コース)

図表出典〕警視庁HP

 戦後、イチョウ並木は神宮外苑の園路から都道に移管されました。 イチョウ並木は4年に1度、明治神宮と連携して剪定されていて、樹木の姿を美しい円錐形に仕立てるとともに、絵画館側に向かって樹木の高さを低くすることで遠近感を強調した景観整備がされています 1)

 例年、11月下旬から12月上旬にかけて神宮外苑いちょう祭りやライトアップが行われています 2)

 イチョウ並木は土木学会の選奨土木遺産に選考されています 3)

 外苑外周道路は日曜、休日の午前9時から午後5時の間、サイクリング道路(自転車歩行者用道路)となり、自動車などの通行が禁止されます 4) 5)