隅田川下流部の橋

(水上バスで巡れる多様で個性的な橋梁群)

 隅田川の下流部には、重要文化財に指定された3橋をはじめ、多様な形式の橋梁が数多く架かっています。 これらの橋の中には、様々なエピソードをもつ橋もあり、水上バスで巡ることができます。

隅田川

 隅田川は、北区にある岩淵水門から東京湾に注ぐ流路延長23.5kmの川で、洪水に対しては大正時代を中心に荒川が造られ、高潮に対しては伊勢湾台風並みの高潮に対応した防潮堤や堤防が整備されている安全な河川です 1)

 隅田川は、沿川にスカイツリーがある浅草・吾妻橋、国技館がある両国・蔵前、市場がある築地・豊洲などの観光地を抱え、95万人が集まる隅田川花火大会をはじめ、賑わいを創出する様々な取組みが行われています 1) 。 隅田川の下流部では、浅草や両国から下流に向かう水上バスが1日に20便以上運航されているほか、屋形船の運航も多く、船での橋巡りに適しています。

 隅田川の下流部には、重要文化財に指定されている3橋をはじめ様々な形式の道路橋が架かっていて、船から橋の魅力を堪能することができます。

隅田川の道路橋整備史

江戸時代

 隅田川には江戸時代に上流部に千住大橋(せんじゅおおはし)、下流部に両国橋(りょうごくばし)、新大橋(しんおおはし)、永代橋(えいたいばし)、吾妻橋(あずまばし)の4橋の合計5橋が架けられました。

 最初に架けられたのは、東北に向かう奥州街道(日光街道、国道4号)の千住大橋で、徳川家康が関東に移封された4年後、関ヶ原の合戦の6年前となる文禄(ぶんろく)3年(1594)11月に隅田川の上流部に架けられました。

江戸の発達の図表

明暦の大火後の江戸

図表出典〕帝都復興事業図表

江戸の発達の図表

明暦の大火前の江戸

 その60年後、首都として発展した江戸市中の6割を焼いた明暦(めいれき)3年(1657)の「振袖火事」の復興にあたって、郊外への移転を伴う都市計画で隅田川の対岸が開発され、振袖火事の4年後の寛文(かんぶん)元年(1661)両国橋が架けられました 1)

 幕府の財政支出が拡大した5代将軍綱吉の時代には、元禄6年(1693)新大橋が、元禄11年(1698)永代橋が架けられました。

 8代将軍吉宗は、幕府の財政再建のために増税と緊縮財政による享保(きょうほう)の改革に着手し、享保4年(1719)に永代橋を、延享(えんきょう)元年(1744)に新大橋を民営化するなど、橋の管理水準を下げていきました。 吾妻橋は緊縮財政のなか安永3年(1774)に、幕府の費用ではなく町方により架けられました 2)

 文化4年(1807)に、富岡八幡宮の祭礼で老朽化した永代橋が落橋し500人を超える死者がでたため、落橋の翌年には永代橋と新大橋が幕府の費用で架け替えることとなり、町方による管理・運営は終わりました 2)

明治〜大正時代

洋式木橋の架設

 明治新政府は、国道などの制度が整うより前の明治5年(1872)に隅田川下流部の4橋を政府の資金で架け替えることを決め、順次、洋式木橋に架け替えました 1)

 当時は民間による有料橋の架設が奨励されていて、明治7年(1874)10月に厩橋(うまやばし)が、大正3年(1913)5月に白鬚橋(しらひげばし)が有料橋として新設されました。 月島埋立地の水道整備の一環で、明治36年(1903)3月に相生橋(あいおいばし)が新設されました 1)

鉄橋の架設

 明治20年から45年にかけて、洋式木橋が三径間のプラットトラス橋(斜材を上向きに開いて配した三角形の骨組構造の橋)に架け替えられました。

  • 明治20年(1887)吾妻橋(錬鉄製)
  • 明治26年(1893)厩 橋(錬鉄製)
  • 明治30年(1897)永代橋(鋼製)
  • 明治37年(1904)両国橋(鋼製)
  • 明治45年(1912)新大橋(鋼製)

 鉄橋の型式は、平行弦トラスから曲弦トラスに、単径間の曲弦トラスから全径間をひとつにした曲弦トラスにとデザインが高度になり 1) 、使われる材料も錬鉄から鋼材に進歩しています。

 明治30年代には自動車や路面電車が普及したため、一部の橋は幅員や耐荷力が時代に追い付かず、吾妻橋や永代橋では近接して木製の都電橋が架けられるなどしました。

関東大震災

 大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生し、死者10万5,385人の被害が生じ、隅田川の両岸の6つの区ではではほぼすべての建物が焼失しました。 橋梁は、地震の揺れによる被害はほとんどなかったものの、焼失区域にあった木橋はすべて焼失し、敷板に木材を用いていた鉄橋も焼失したため、避難上の大きな障害となり多くの人が犠牲になりました 1)
※ 6つの区‥旧神田区(現千代田区の北側)、旧日本橋区と京橋区(現中央区)、旧浅草区(現台東区の西側)、旧本所区(現墨田区の西側)、旧深川区(現江東区の西側)

  • 相生橋 ‥ 木橋で焼失しました。
  • 吾妻橋厩橋永代橋 ‥ 木製の床版(しょうばん)が燃えて床版に近接した鋼材も変形しました。
  • 両国橋 ‥ 車道床版がコンクリート製で歩道床版が木製であったところ、上流側の歩道が焼失したものの震災後の通行は可能でした。
  • 新大橋 ‥ 床版がコンクリート製で類焼を免れ、火災から避難する人が通行できたため「お助け橋」と呼ばれました。

震災復興

復興計画

 関東大震災の復興で、焼失区域で約20万棟の住宅移転を含む約3,000ヘクタールの区画整理が行われ、狭い路地と町屋や長屋が密集した昔ながらの江戸の街並みが一掃されました。 街路は、幅員22m以上の幹線街路は国施行で119km、幅員11m以上の補助線街路は東京市施行で139km整備されました。

復興橋梁

 隅田川下流部の橋梁は、幹線街路にかかる6橋は内務省復興局が担当して大正15年(1926)から昭和3年(1928)までに、永代橋相生橋の架け替えと、言問橋駒形橋蔵前橋清洲橋の新設がされました。

 補助線街路にかかる3橋は東京市が担当して昭和4年(1929)から昭和7年(1932)までに、吾妻橋厩橋両国橋の架け替えが行われました。

 9橋の復興橋梁に焼失しなかった新大橋を加え「隅田川十橋」と言われました。 隅田川上流部では千住大橋と白鬚橋を東京府が架け替えました 1) 2)

復興橋梁の型式
吾妻橋

上路式アーチ(吾妻橋)

駒形橋

中路式アーチ+上路式アーチ(駒形橋)

永代橋

下路式タイドアーチ(永代橋)

厩橋

下路式3連タイドアーチ(厩橋)

清洲橋

下路吊橋(清洲橋)

言問橋

上路ゲルバー式鈑桁(言問橋)

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14〜15

 橋梁の型式は、架橋条件が同一であれば同じ型式になるのが普通ですが、震災復興では異なった型式にすることを原則としていました。 そのため、復興橋梁9橋は、上路式アーチ2橋(吾妻橋、蔵前橋)、中路式アーチ+上路式アーチ、下路式タイドアーチ、下路式3連タイドアーチ、下路吊橋、上路式ゲルバー鈑桁3橋(言問橋、相生橋、両国橋)というアーチ橋、吊橋、桁橋型式の橋梁となりました 3)

永代橋と清洲橋

 永代橋清洲橋は、内務省復興局が担当した6橋の予算の約半分を投じて、経済性を重視した場合の3倍以上の費用を費やして架けられました。 隅田川の河口からみて1番目と2番目の橋となる両橋は、高張力鋼のような最先端の技術も導入して、対の橋として上向きのアーチの曲線の橋と下向きの吊り橋の曲線の橋が組み合わされています 4) 。 両橋の設計計算書には「永代橋の地点は,荒川の河口で,視界が大きく開けている。そこには雄大で,かなり男性的なバランスドアーチ橋が望ましい。一方,落ち着いた風景のなかにある清洲橋の地点には,アーチ橋と対照的な優しさを感じさせる吊橋を配した」という趣旨の説明がされています 2)

戦前戦後

 震災復興の後、隅田川の下流部では、臨海部の開発に伴う橋梁が戦前に勝鬨橋、戦後に3橋架けられました。 首都高速道路の整備に伴う2橋と人道橋1橋も架けられました。
 老朽化により新大橋は昭和51年(1976)に、相生橋は平成12年(2000)に架け替えられました。

表−震災復興の後に架けられた橋
  橋名 開通年 路線 主な整備目的
臨海部開発関連
  勝鬨橋 昭和15年(1940) 晴海通り 埋立地の開発や万国博覧会のメインゲートとして
佃大橋 昭和39年(1964) 都道473号線
(新富晴海線)
晴海通りや永代通りの渋滞緩和のため
中央大橋 平成6年(1994) 都道463号線
(上野月島線)
大川端リバーシティの開発に関連して
築地大橋 平成30年(2018) 環二通り 臨海開発の一環として
首都高速道路整備関連
  両国大橋 昭和45年(1970) 高速6号向島線
高速7号小松川線
首都高速専用の橋として
隅田川大橋 昭和54年(1979) 高速9号深川線
都道475号線
首都高速と街路で二層の橋として
人道橋
  桜橋 昭和60年(1985) 台東区と墨田区により両岸の公園を繋ぐ橋として

隅田川の道路橋の景観・文化

文化財指定等

 平成19年(2007)に、清洲橋永代橋勝鬨橋の3橋が重要文化財の指定を受けました。 重要文化財の指定基準は、清洲橋と永代橋は、『意匠的に優秀なもの』及び『技術的に優秀なもの』、勝鬨橋は『技術的に優秀なもの』となっています 1)

 また、東京都選定歴史的建造物に、言問橋吾妻橋駒形橋厩橋蔵前橋両国橋が選定されているなど、景観やデザインの面で評価されている橋がいくつもあります 2)

景観整備

著名橋の整備

著名橋の整備事業のイメージ図(隅田川の橋ではない)

図表出典〕第二次東京都長期計画 P.200

 東京都は昭和57年(1982)12月に策定した第一次長期計画で、隅田川を中心とした景観づくりをするため「隅田川著名橋の整備事業」で、白鬚橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋清洲橋永代橋勝鬨橋の8橋を個性的な原型を生かして整備することを掲げました。 この計画により、橋灯の復元や天然石による歩道舗装、橋詰めの緑化、ライトアップなどが行われ、後に他の橋にも拡大して実施されました 1)

ライトアップ

 東京都は、平成30年(2018)3月に「公共施設等のライトアップ基本方針」を策定し、『東京の魅力を高めるため、東京2020大会、さらに大会後も引き続き、夜間景観に磨きをかけていく』ために『隅田川を「光の軸」とし、隅田川橋梁群等ライトアップ拡大とテラス照明整備の推進』をするとして、次の橋梁をライトアップしました 1) 2)

橋梁の維持補修や補強

 鋼橋では定期的に塗替え塗装が行われます。 阪神淡路大震災をうけ多くの橋で耐震補強が行われています。 東京都は、耐震性だけではなく、耐荷性や耐腐食性など他の性能も最新の基準に適合させる補強を行って橋梁の長寿命化を進めるとしています。

 これらの工事で内容が把握できたものを個別の橋のページで紹介していますが、隅田川の橋梁では、塗色に配慮したり、外見に変化を与えないような工法が採用されている事例が多くあります 1) 2) 3)

隅田川下流の道路橋一覧

 隅田川の浅草以北は水上バスの運行が少ないため、桜橋から下流の隅田川に架かる道路橋と、水上バスから見える支川や派川の道路橋を紹介します。

 水上バスの運行本数が最も多いのは、「東京クルーズ 浅草発着場」から、隅田川の河口をでて、浜離宮や日の出桟橋に向かう航路です。

表−隅田川下流の道路橋(上流から下流に向かって)
隅田川の橋 道路名 管理者 備考
   支川、支川の橋
【東京水辺ライン 桜橋発着場】
桜橋 台東区 公園橋
言問橋 言問通り 国土交通省 東京都選定歴史的建造物
【東京水辺ライン 浅草寺二天門前発着場】
(隅田川橋梁) (伊勢崎線) (東武鉄道) (鉄道橋)
  (北十間川) 源森川水門
枕橋
【東京水辺ライン 墨田区役所前発着場】
【東京クルーズ 浅草発着場】
吾妻橋 浅草通り 東京都 東京都選定歴史的建造物
駒形橋 都道上野月島線 東京都 東京都選定歴史的建造物
厩橋 春日通り 東京都 東京都選定歴史的建造物
蔵前橋 蔵前橋通り 東京都 東京都選定歴史的建造物
(蔵前専用橋) (NTT、都水道局) (通信線及び水道)
【東京水辺ライン 両国発着場】
(隅田川橋梁) (JR総武本線) (JR東日本) (鉄道橋)
  神田川
柳橋
両国橋 国道14号 国土交通省 東京都選定歴史的建造物
【東京水辺ライン 浜町発着場】
両国大橋 高速6号、高速7号線 首都高速道路
  (竪川) 竪川水門
一之橋 (水門の後ろで見えにくい)
新大橋 新大橋通り 東京都
  小名木川 新小名木川水門
萬年橋 (芭蕉庵史跡展望庭園)
清洲橋 清洲橋通り 東京都 重要文化財
隅田川大橋 都道永代葛西橋線 東京都 上層は高速9号線
  日本橋川
豊海橋
永代橋 永代通り 東京都 重要文化財
大横川 大島川水門
  隅田川派川
【東京水辺ライン 越中島発着場】
相生橋 清澄通り 東京都
中央大橋 都道上野月島線 東京都
  亀島川 亀島川水門
南高橋 (水門の後ろで見えにくい)
  佃堀 住吉水門
佃大橋 都道新富晴海線 東京都
【東京水辺ライン 明石町・聖路加ガーデン前発着場】
  (月島川) 月島川水門
西仲橋 (水門の後ろで見えにくい)
勝鬨橋 晴海通り 東京都 重要文化財
築地大橋 環二通り 東京都 暫定供用
(隅田川河口)
【東京クルーズ 浜離宮発着場】
橋梁名のリンクをクリックすると、詳細のページに移動します
図表出典〕当サイト作成

 下流に個性的な橋が多いため、ここからは下流から浅草に向かって紹介します。 複数の橋にまたがる話しは、基本的には下流側の橋に記載しています。

築地大橋

 築地大橋は、臨海部の開発に伴って架けられた、環二通りが隅田川を渡る橋梁です。 隅田川の最も下流にあり、平成30年(2018)に開通した最も新しい橋で、頭上に横繋ぎ材の無い開放感がある鋼3径間連続中路式アーチ橋です。

 橋の北側にある築地市場の豊洲への移転が遅れたため、現在、暫定開通をしています。

勝鬨橋

勝鬨橋

勝鬨橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、1997、P.14

 勝鬨橋は、晴海通りが隅田川を渡る橋梁で、昭和15年(1940)に架けられた、万国博覧会の会場のメインゲートとなる筈の橋でした。

 橋の側径間はタイドアーチで、中央径間はハの字型に開いて船を通せる、わが国最大規模の跳開橋で、昭和45年(1970)までは開いていました。 『技術的に優秀なもの』として重要文化財に指定されています。 橋のたもとには『かちどき橋の資料館』が設けられています。

佃大橋

佃大橋

佃大橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 佃大橋は都道473号線(新富晴海線)が隅田川を渡る橋で、東京オリンピックに向けて晴海通りなどの渋滞を緩和するために架けられました。 高度成長期の日本を象徴するようなシンプルな箱桁橋です。

中央大橋

中央大橋

中央大橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 中央大橋は都道463号線(上野月島線)が隅田川を渡る橋で、平成5年(1993)に架けられた斜張橋です。 「兜の鍬形」をイメージした塔で、橋上にはブロンズ像があります。

相生橋

相生橋

相生橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 相生橋は清澄通りが隅田川の派川を渡る橋で、平成12年(2000)に架けられたプラットトラス橋です。

 初代の相生橋は明治36年(1903)に架けられた木橋で、先代の相生橋は関東大震災の復興橋梁でした。

永代橋

永代橋

永代橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 永代橋は永代通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。『帝都水路の偉彩たるべきである』として架けられた豪壮雄大な曲線美を有するタイドアーチの橋は、重要文化財に指定されています。

 初代の永代橋は、徳川5代将軍綱吉の時代に架けられ、江戸時代に日本橋梁史上最大の事故を起こしています。

隅田川大橋

隅田川大橋

隅田川大橋

写真出典〕当サイト撮影(H31.4)

隅田川大橋

隅田川大橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 隅田川大橋(すみだがわおおはし)は、上層が高速9号深川線、下層が都道475号線(永代葛西橋線、えいたいかさいばしせん)のダブルデッキ構造の橋です。

 湾岸道路から箱崎に通じる高速9号深川線の建設にあたり、都道部分は東京都から首都高速道路公団へ委託して造られました。 橋脚と基礎は共有されていて、桁は3径間連続鋼床鈑箱桁になっています。 都道の歩道は、避難路としての役割から最大6.5mと広幅員に造られています 1) 2)

  • 橋梁名 ‥ 隅田川大橋
  • 道路名 ‥ 都道475号永代葛西橋線(補助第112号線)、高速9号深川線
  • 所在地 ‥ 東京都中央区日本橋箱崎町(はこざきちょう)〜江東区佐賀(さが)
  • 開通年月日 ‥ 昭和54年(1979)10月13日(都道部)
  • 橋長×幅員 ‥ 391.7m(河川部210m)×27.5m
  • 型式 ‥‥ 3径間連続鋼床鈑箱桁橋

清洲橋

清洲橋

清洲橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 清洲橋は清洲橋通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。

 当時、隣の永代橋が上向きのアーチ曲線を描くのに対して、清洲橋は繊細で優美な下向きの懸垂曲線を描く吊り橋で、材料、構造形式、工法に当時の最先端の技術が駆使されていて、重要文化財に指定されています。

新大橋

新大橋

新大橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 新大橋は新大橋通りが隅田川を渡る橋で、昭和52年(1977)に架け替えられた斜張橋です。

 初代の新大橋は徳川5代将軍綱吉の時代に両国橋に続く下流部で2橋目の橋として架けられました。 先代の新大橋は関東大震災で避難の道として大勢の人を救った橋で、一部が明治村に移設されています。

両国大橋

両国大橋

両国大橋

写真出典〕当サイト撮影(R2.7)

 両国大橋(りょうごくおおはし)は、高速6号向島線高速7号小松川線が接続する両国ジャンクションの橋梁部分です。 隅田川沿いを通る高速6号向島線が川を渡るとともに高速7号小松川線が分岐するため、曲線が組み合わされた複雑な立体構造物になっています。

  • 橋梁名 ‥ 両国大橋
  • 道路名 ‥ 高速6号向島線、高速7号小松川線
  • 所在地 ‥ 東京都中央区日本橋浜町(はまちょう)二〜墨田区両国 (りょうごく)
  • 開通年月日 ‥ 昭和46年(1971)3月21日
  • 橋長×幅員 ‥ 257.7m×27.5m
  • 型式 ‥‥ 3径間連続鋼床版箱桁

両国橋

両国橋

両国橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 両国橋は国道14号が隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。 長支間の鈑桁橋で、当時は「三大ゲルバー橋」の一つと言われ威容を誇りました。

 初代の両国橋は隅田川下流で最初の橋で、徳川4代将軍家綱の時代に架けられ、江戸時代を通して幕府の直轄管理だった重要な橋です。 現在は拡幅事業の対象となっています。

隅田川橋梁(JR総武本線)
JR総武本線隅田川橋梁

JR総武本線隅田川橋梁

写真出典〕当サイト撮影(H31.4)

 隅田川橋梁は、JR総武本線が隅田川を渡る橋で、総武本線の両国から御茶ノ水までの延伸に伴い昭和7年(1932)に架けられました。 この延伸までは、江東・千葉方面からの鉄道は隅田川の手前の両国駅までで、市電などに乗り換えて都心方面に向かっていましたが、関東大震災の復興の区画整理の際に延伸の用地が確保されました。

 橋の中央径間は我が国初のランガー桁(補剛桁が曲げモーメント、アーチ部材が圧縮力を分担する構造で、アーチ部材を薄くできる形式)で、側径間はプレートガーダーの橋長170.8mの橋です 1) 2) 3)

 1) 隅田川橋梁(JR東日本/総武線)歴史的鋼橋集覧
 2) 総武本線 隅田川橋梁 わが国初のランガー桁鉄の橋百選−近代日本のランドマーク
 3) 御茶ノ水・両国間高架線工事に就て(平井喜久松、土木学会誌、Vo.18, No.8, S7.8 (1932))

蔵前専用橋
蔵前専用橋の写真

蔵前専用橋

写真出典〕当サイト撮影(H31.4)

 蔵前専用橋は、NTTと水道局が昭和42年(1967)に架設した橋長155.4mの通信専用橋と水管橋の合築の鋼連続箱桁橋です 1)

 1) 電電蔵前専用橋橋梁史年表

蔵前橋

蔵前橋

蔵前橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 蔵前橋は蔵前橋通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興でかけられました。 橋の上部に視線を遮るものがない上路式のアーチ橋です。

厩橋

厩橋

厩橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 厩橋は春日通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。 下路式のアーチ橋ではあるものの、天井の鋼材などを少なくできるタイドアーチとなっています。

 初代の厩橋は、賃取橋として明治7年(1874)に架けられました。

駒形橋

駒形橋

駒形橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 駒形橋は都道上野月島線が隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興でかけられました。 橋詰の制約で側径間のアーチを小さくせざるを得ないところで、中央径間のアーチのライズを高くしてバランスを取ったシルエットが特徴的です。

吾妻橋

吾妻橋

吾妻橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 吾妻橋は浅草通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。 アーチが道路の下にあるため、橋上の景観に優れています。

 初代の吾妻橋は徳川10代将軍家治の時代に民営で架けられた橋で、明治時代には隅田川で初めて鉄橋に架け替えられました。

隅田川橋梁(東武伊勢崎線)
東武鉄道隅田川橋梁の写真

東武鉄道隅田川橋梁

写真出典〕当サイト撮影(R1.11)

 隅田川橋梁は、東武伊勢崎線が隅田川を渡る橋で、昭和6年(1931)5月に架けられました。 架橋まで東武鉄道は隅田川対岸の現在のとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)を浅草駅としていて、旅客は市電などで隅田川を渡って都心方面に向かっていました。

 橋の構造は中路式でゲルバー式のワーレントラスで、車窓からの視界を遮らないようトラスの上端が低く作られた橋長166mの橋です 1) 2)。 平成30年(2018)4月からライトアップをされています 3)

 1) 隅田川橋梁(東武鉄道伊勢崎線)歴史的鋼橋集覧
 2) 東武鉄道 隅田川橋梁 どっしりとした中路トラス橋鉄の橋百選−近代日本のランドマーク
 3) 浅草〜とうきょうスカイツリー間 隅田川橋梁のライトアップを実施します(2017年10月25日、東武鉄道株式会社)、リンク切れ

言問橋

言問橋

言問橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 言問橋は言問通りが隅田川を渡る橋で、関東大震災の復興で架けられました。 両岸が復興公園の隅田公園のため、公園からの眺望に調和し、橋からも景色が見やすい、当時国内の鈑桁橋で最も支間が長い橋として架けられました。

 東京大空襲では多くの方が亡くなられました。

桜橋

桜橋

桜橋

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

桜橋

桜橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.14

 桜橋(さくらばし)は、台東区と墨田区が整備した隅田公園と対岸の緑道公園を結ぶ園路で、隅田川では唯一の歩道橋です。

  • 橋梁名 ‥ 桜橋
  • 所在地 ‥ 東京都台東区今戸(いまど)一〜墨田区向島(むこうじま)
  • 開通年月日 ‥ 昭和60年(1985)4月
  • 橋長×幅員 ‥ 169.5m×6.0〜19.6m
  • 型式 ‥‥ 3径間連続X形曲線鋼箱桁橋